この記事は2022年8月4日に書かれたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください。
坂出市西大浜北「一文字堤防」坂出塩田の父として慕われる久米通賢の歴史に触れる【動画あり】
坂出塩田の父として慕われる久米通賢が築いた「一文字堤防」をご紹介します。現在も見ることができ、様々な工夫が施された堤防です。
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久米通賢
久米通賢とは 【1780(安永9)年~1841(天保12)年】
ここ坂出は,弥生・古墳時代の製塩土器が出土するなど,古くから塩に関係した地域でした。
そして江戸時代,「塩の町」として坂出を築きあげた人物「久米栄左衛門」が現れます。香川の地で船かじ作り職人の子として誕生,自らを「通賢」と名乗り,経世家, 砲術家として名を馳せ,蘭学,天文,測量,軍器製造などの実学にも優れた人物でした。
1824年(文政7)年,高松藩の財政は傾き人々は貧困にあえいでいるなか,通賢は藩の財政を立て直し,人々を救おうと遠浅の坂出沖に塩田を開墾することを高松藩主松平頼恕に申し出て、1826年(文政9)年坂出墾田の普請奉行となります。
坂出墾田には,藩からの約2万両の工費だけでは足らず,私財をも投じて,延べ約194万人を動員し,3年後の1829(文政12)年,東大浜・西大浜を含む約132haの塩田の開墾に成功しました。
引用:坂出市観光協会サイトより
一文字堤防
一文字堤防を目の前にすると、今からおよそ200年も前にこれだけの長さの堤防を正確に築き上げる技術と信念に圧倒されます。また、綺麗な海水を取り入れる装置や船を着きやすくする技術などを取り入れ通賢らしい偉業だと実感させられます。
塩田をつくるには,先ず堤防をつくり海水の浸入を防ぐ必要があります。
現在の西大浜1丁目から築港・宇多津線沿いの堤防は,久米通賢が築いたもので,今もみることができます。
一直線に堤防が築かれていることから一文字堤防と名付けられ,きれいな海水を塩田にとり入れる装置や,船が着きやすくするなど,通賢ならではの工夫が施されています。
引用:坂出市観光協会サイトより
場所
坂出市西大浜北に位置し、美咲食堂の前に現在も残っています。現在の堤防の下にある部分が通賢が築いた堤防です。およそ200年経った今でも美しく伸びる一文字が印象的です。
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情報を網羅する人気サイト「まるごと・中讃つーしん (まるつー:旧 丸亀つーしん)」 と、坂出・宇多津のケーブルテレビ局「KBN」、そして坂出・宇多津のコミュニティFM局の「エフエム・サン」がコラボをして動画内でさらに詳しくご紹介しています!!
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塩田の父として慕われる稀代の科学者「久米通賢」の足跡が坂出市市内には数多く残っています。今後も通賢の歴史に触れる場所や建物などをご紹介していきます。お楽しみに!
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